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【山本五十六 国葬】故元帥海軍大将正三位大勲位功一級山本五十六国葬の日 ラジオ実況 昭和18年6月6日

故元帥海軍大将正三位大勲位功一級山本五十六国葬の日 ラジオ実況 昭和18年6月6日

YouTubeに以前アップした動画の文字起こしをこちらにも掲載。
山本が戦死した事件は「海軍甲事件」と呼ばれた。

海軍甲事件(かいぐんこうじけん)とは、第二次世界大戦中の1943年昭和18年)4月18日に、前線を視察中の連合艦隊司令長官山本五十六海軍大将の搭乗機がアメリカ軍戦闘機に撃墜され、山本が戦死した事件である。アメリカ側名称はヴェンジェンス作戦英語: Operation Vengeance)。

Wikipedia

山本の死は1か月以上秘匿され、5月21日の大本営発表ならびに内閣告示第8号で公になった。
山本に対し正三位、大勲位、功一級と元帥の称号が贈られ、国葬に付することが発表された。


故元帥海軍大将正三位大勲位功一級山本五十六ニ賜フ誄(昭和18年6月4日付)

沈毅ノ性能ク大任ニ堪ヘ寛宏ノ度常ニ衆望ヲ負フ
身ヲ持スル廉潔人ニ接スル諧和戎事ニ鞅掌シテ
心力ヲ航空ニ殫シ軍政ニ参画シテ
智術ヲ振武ニ効ス出テテ水師ヲ督スル
善謀予メ彼我ノ勢ヲ審ニシ雄断克ク勝敗ノ機ヲ制ス
風行雷動未タ一歳ヲ経サルニ八タヒ竹帛ノ勲ヲ樹テ
鷲摶鵬撃遠ク萬里ニ互リテ両ナカラ空海ノ権ヲ握ル
戦局ノ方ニ酣ナル将星遂ニ墜ツ壮烈古ヲ曠シクシ軫悼殊ニ深シ
茲ニ侍臣ヲ遣ハシ賻ヲ齎ラシ臨ミ弔セシム

昭和18年5月 山本五十六誅草稿(二松学舎創立140周年記念 新収資料展より)

動画の実況文字起こし

盡忠の英霊永久に神鎮まります。
故元帥山本五十六海軍大将国葬の日は参りました。

全国民の信頼と景仰を一身に集め、
世界に類なき大戦果を挙げた偉大な海の元帥に永別の日、
国を挙げて喪に服し一億同胞は涙を呑んでこの悲しみに堪え、
今や元帥の偉烈を胆に銘じて、この仇討たずば止まじの熾烈なる気魄と
烈々たる敢闘精神に燃え立って、今日の日を迎えたのであります。

過ぐる五月二十三日、痛惜哀慕の裡に還りました。
元帥の英霊は直ちに水交社別館に安置せられ
それより連日、親族は申すに及ばず
高位顕官、朝野の名士、更には盟邦各国使臣の懇ろなる
弔問、通夜をうけたのであります。

また霊前に哀弔の誠を捧げ
戦争完遂、米英撃滅を誓って額衝く
一般弔問者は引きも切らず、二十万の多きに達したのであります。

斯くて六月一日、正寝移柩ノ儀は厳かに執り行われ
更に六月四日には、畏くも勅使、御使の御差遣を配して
賜誅ノ儀が行われ元帥の余栄は余すところなく
燦と輝きわたったのでございます。

次いで同日午後四時、墓所祓除ノ儀、
同じく七時三十分、霊代安置ノ儀も
滞りなく終了し、ここに国葬の日を迎えました。
この朝まだき、青葉に包まれました水交社内は
塵一つなく掃き清められ
正寝の間に於きましては
午前七時三十分、米内葬儀委員長
塩沢司祭長以下係員
喪主義正氏、親族着床すれば
奏楽の裡に浄饌は奠ぜられ
次いで塩沢司祭長恭々しく霊前に参進、祭詞を白し
続いて喪主義正氏は父元帥の御霊に
涙の訣別を告げて拝礼いたしました。

更に親族、参列諸員の拝礼あり、
浄饌を徹して柩前祭ノ儀は終わったのであります。
午前八時三十分、霊車発引ノ儀に移り
霊柩は斎壇から玄関へ
更に悲しき楽の流れるうちに
海軍砲車の霊車に移され
午前八時五十分、
軍楽隊奏する「いのちをすてて」の楽と共に
前後一キロに及ぶ
長い葬列は静かに水交社を発引、
一部の騎乗者を除いて、
全員殆ど徒歩で粛々と順路を
飯倉、西久保巴町、虎ノ門を経て
日比谷公園の葬場に進んだのであります。

哀々たる楽の音につれて、蹄の音もしめやかに、
蠣波中尉指揮の騎兵一個小隊、
儀仗旗を風になびかせて進んで参りました。
胸に心に元帥の偉徳を刻みつけるかのような、
長い長い将兵たちの挙手の礼と
悲憤の熱涙に迎えられまして、
葬列の先駆は只今、放送席前通過でございます。

高く、低く、かなびくような楽の音につれまして、
只今、蠣波中尉指揮の騎兵一個小隊、
儀仗旗を風になびかせて
粛々と進んで参りました。

次に久保田少佐指揮の歩兵二個中隊が
四列側面縦隊で続いて参ります。
孰れも銃口を下に床尾板を上にして
負い銃の形でございます。
只今、霊車、虎ノ門辺りを通過。
堵列儀仗隊の居流す笛の音が悲しく響いて参りました。
陸軍儀仗兵に続きまして、
高山海軍大佐指揮の海軍儀仗兵約一個中隊、
光栄ある軍艦旗を先頭に進んで参りました。
この十六光の軍艦旗の下、太平洋に、またインド洋に
数多若桜が皇国の為に莞爾と笑んで
散ったことでありましょう。
大きな軍艦旗は風をはらんで、ゆらゆらと揺れながら
只今、音もなく進んで参ります。

この陸海軍の儀仗兵に続きまして、
霊車の前を浄めまいらす
烏帽子狩衣姿の司祭が進んで参ります。
沿道に奉拝するもの、ざわめきさえもなく、
水のような静けさでございます。
烏帽子姿の??続きましては、衣冠単、
手には笏を持し藁靴を穿って粛々と歩み行くのは、
この度の葬儀司祭長塩沢海軍大将でございます。

真白の祭服を纏った塩沢海軍大将に続いては、
故元帥海軍大将正三位大勲位功一級山本五十六之柩と誌した
銘旗が一際高く掲げられ、
やがてその後には、かつての副官
渡辺中佐の棒持する金色まばゆい元帥刀、
また武人最高の栄誉と申すべき
大勲位菊花大綬章、功一級金鵄勲章をはじめとし、
盟邦各国より贈られました最高勲章の数々が
十二名の海軍将校に棒擡されて、
拝するものに元帥の偉勲をありありと語っております。

斯くて愈々全国民の捧げまいらす哀悼の念を込めて、
漆黒の砲車に安置された真白の柩は、
今十二名の棺側者に護られまして、
砲車のきしみ静かに近づいて参りました。
擐甲の股肱、武臣の典型、邦家の柱石の、
今はまさに行きて還りませぬ最後の行進でございます。

数十萬の葬送者、ただ粛然として頭を垂れ、
沿道の丁子低くうなだれて、吹く風もむせぶかのようであります。
仰ぎ拝しますれば、砲車の真白の柩の上には、
故元帥の軍帽、軍服が飾られ、白絹の曳き綱を曳きまいらすものは、
尾崎大尉指揮の海兵隊員二十四名。
霊車の両側には海軍大将嶋田繁太郎、永野修身、加藤隆義、
井出謙治、高橋三吉、海軍中将堀悌吉、塚原二四三、新山良幸、
陸軍大将山田乙三、陸軍中将木村兵太郎の名だたる各将星
及び鈴木枢密院副議長、小原貴族院議員ら、
特に生前元帥と親交のあった方々が霊柩の左右を護りまいらせております。

真一文字に結んだ大きな口と豊かに光る大きな目、
そして光栄ある三本指の左手に軍刀の束をしっかと握った皇国の御楯、
今真白き柩となって永しなえに神鎮りたまわるとき、
拝するもの全ての胸の内は悲憤の涙に湧き立ち、
元帥の仇を報ぜん堅き誓を涙と共に霊前に捧げまいらすのであります。

若葉に包まれた海軍大臣官邸前には、
眥を決した若き海軍士官たちの凛然たる挙手の礼。
山本元帥に続け、山本魂を継げ、
噛み締めた唇に決意を語る清き姿が見受けられます。
胸に心に元帥の遺徳を刻みつけるかのような、
長い長い将兵たちの挙手の礼に送られまして、

霊車は霞ヶ関より日比谷へときしみ静かに進んで行きました。
霊柩車の直後には、故元帥のご長男喪主義正氏が
素服を打掛け、巻纓の冠を頂いた衣冠単、
藁靴姿で馬手に扇、弓手に桐杖を引いて、
父なる柩の後に重々しく従いまいらせております。
喪主に続きまして元帥の親族、
高野気次郎氏以下十六名、
特別縁故者として及川大将以下二十六名が扈従しております。
更に所定諸員の後には、この度葬儀委員長の大命を拝しました
米内光政海軍大将、唇を真一文字に結び黙々たるうちにも、
千萬の想いを秘めて霊車に扈従する米内大将。
嘗て自らは海軍大臣、元帥は次官として
共に軍政の枢機に参画し、殊に縁の深かりしものを
今は元帥を斎祀る葬儀委員長として、
元帥の柩を送りまいらせるこの感慨、
蓋し無量でございましょう。

米内大将に続いて、星野副委員長
更に沢本海軍次官、岡本宮内参事官、
村田情報局次長、稲田内閣書記官の葬儀委員、
その後に山口隊長指揮する陸軍軍楽隊、
悲しみをこめて吹き鳴らす
「いのちをすてて」の曲は、
或は高く或は低く、
元帥追慕の情をいやが上にもかき立てます。

沿道に堵列する人々の胸に深々としみ通ってゆく
哀々たる楽の音に続きまして、
儀仗兵の先頭に立つ諸兵指揮官
土肥原賢二陸軍大将の厳しき姿が
幕僚と共に馬上に揺れて参りました。
多くの儀仗兵はまず土肥原大将を先頭として、
唐島海軍少佐指揮の海軍儀仗兵一個中隊、
続いて陸軍鵜飼大佐指揮の歩兵一個大隊、
桑田大佐指揮の騎兵一個小隊、
歩兵一個中隊がそれぞれ誉の軍旗を捧持して、
粛々と進んで参りますれば
その後、砲四門を有する砲兵一個中隊、
騎兵一個小隊が山田大佐の指揮の下に続いて参ります。
馬上の指揮刀は初夏の薫風を切ってきらめき、
黙々と歩む兵の肩には銃口を下にして小銃が担われ、
左手は剣鞘を抑えて音を殺し、
まこと粛々たる行進でございます。

奉拝する人々も固唾をのんで、
移り行く盛儀のさまをまじろぎもせず
じいっと見詰めております。
どの顔にも、どの瞳にも
「我等はみな山本魂を受け継がん」の決意は、
強く強く悲憤の熱涙と共に
浮かびあがっているのであります。

斯くて午前九時四十五分、
葬列は日比谷公園の葬場に到着いたしました。
只今、はためく銘旗に続いて
渡辺安次中佐の捧持する元帥刀、
大勲位菊花大綬章、功一級金鵄勲章、
他各勲章、燦と輝き、武人の誉、
漆黒の砲車に載せまいらせました
霊柩を遥かに拝します。

去る四月、南溟の空に忽焉散華された
われらの提督山本元帥の英霊をここに迎えまつる。
過ぐる昭和九年の月日も同じ六月五日、
一代の星将東郷元帥の国葬と所も同じ日比谷葬場に、
今一億の国民が火の玉となって、
米英撃滅の決意に燃え立つ最中に、
空征かば雲染む屍と壮烈な戦死を遂げられた
山本元帥の英魂を迎えまつる。

霊柩は幔門の中にて、斎場内は床子に安置され、
午前十時再び幔門は開かれました。
やがて、伏見宮博恭王殿下を始め奉り、
久邇宮朝融殿下、同じく徳彦王殿下、
朝香宮鳩彦王殿下、同じく孚彦王殿下、
竹田宮恒徳王殿下、李王垠殿下御着床、
秩父宮家を始め、皇族王公族の御使着床、
次いで皇太后陛下御使西邑事務官、
皇后陛下御使小出事務官、
勅使徳大寺侍従の順で本位に就き、
午前十時五分、葬場ノ儀は始められました。

宮内省楽師の奏する「宗明楽」が響き渡る中を
吉田司祭副長ら奉仕して、
神饌幣物は供せられます。
続いて塩沢司祭長は、しずしずと霊前に参進、
故元帥の勲功を讃え、
その死を悼む祭詞を白しあげたのであります。
元帥の輝く閲歴を述べ、
欽慕哀悼の誠を吐露した祭詞を白し終れば、
全員起立、満場水を打ったような静けさの裡を、
聖旨を奉ずる勅使、徳大寺侍従霊前に進んで玉串を奠じて拝礼、
続いて皇后陛下御使小出事務官、
皇太后陛下御使西邑事務官が夫々拝礼、
引続き各皇族、王公族殿下並びに御使の拝礼があり、
続いて喪主義正氏が拝礼のため、祭舎に参進いたしました。

只今、喪主義正氏、衣冠単に素服、藁靴のいでだちで霊前に参進、
玉串を奉奠いたしますれば、
この時、辰巳東部軍参謀長の指揮刀一閃、儀仗兵の敬礼であります。
射ち上げられた三発の小銃は、
新緑の日比谷葬場の空にこだまし、
われらが提督の英魂を慰むることしばし、
葬場内は再びもとの静けさに戻りました。

間もなく十時五十分、
国民遥拝の時刻でございます。
この時刻を期し不滅の偉勲に薫る故山本元帥の英霊に対し、
心からなる哀悼の誠を捧げ、
同時に元帥の心を心とし、
各官庁に、学校に、会社に、工場に、農山漁村に、
その持ち場、職場において
敵米英撃滅の決意を誓い、
併せて英霊の加護を祈りたいと存じます。

只今、東條総理大臣の玉串奉奠でございます。
只今、東條総理大臣幄舎内より、霊前に参進せられました。
国民遥拝の時刻、東條総理の玉串奉奠でございます。
この一瞬を期して、
全国津々浦々の民一億は申すに及ばず、
広く大東亜共栄圏各地に於きましても、
遥かに日比谷葬場に向かって、
敬虔な祈りを捧げたのであります。
続いて袿袴姿のれい子未亡人、親族、各大臣その他参列顕官、
並びに各国大公使、及川海軍大将以下の特別縁故者の拝礼が行われ、
十一時四十分参列諸員の拝礼は終わりました。

次いで、有資格者の拝礼に移り、
零時半過ぎから、式外参拝者たる一般市民の拝礼が差し許されました。
早朝から待っていた一般市民は、
蜿蜒たる列を作って霊前に参進、
仇敵米英撃滅の誓いも固く、
故元帥の冥福を祈ったのでありますが、
午後二時までに一万名余りを数え、
故元帥に対する国民の厚い信望を偲ばせました。

斯くて午後二時、一般参拝を終了、午後二時三十分、
十四台の自動車を連ねた葬列は、
日比谷の葬場を進発、沿道に堵列する市民の奉拝を受けつつ
一路多摩墓地に向かったのであります。

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